作兵衛と喧嘩をした。
 もう知らんと言うので僕も知らんと言ってやった。
 怒って僕の名前を呼んでいたけど、返事なんかするもんか。
 それで、薬草園に身を潜めていたら、甘くてすっとした不思議な香がした。
 茂みの目の前にざく、と刺される枝。こぼれる橙の小さな花。
 身をかがめて僕と目を合わせたのは、善法寺伊作先輩だった。黒々とした瞳が、むしろうっとりと潤んで見えた。
「神埼くん、富松くんと喧嘩したの」
「え、ええ? はい!」
「ふぅん」
 先輩は花の零れる枝をいっぱいに抱えたまま行ってしまった。
 僕の背を傾いた日がじりじり焼いた。僕はじりじり作兵衛を待っていた。
                                                       じ り じ り
 くしゃみで目が覚めた。
 辺りはとっぷり夜で、僕はあわてて茂みの外に飛び出した。甘い香がふわんとした。
 僕は走り出した。甘い香が行く手にある。じりじり何かを待つような香だ。



























 左門が作兵衛と喧嘩して飛び出して行ったので、作兵衛は俺をぎろん、と睨むと絶対そこ動くなよ!と叫んで出て行った。
 留守番を頼むってことは誰か来る予定でもあるのか。
 はたして日暮れ頃に人が来た。意外な人だった。
 富松くんいるかな。いません。ああ、次屋くん。
 現れた善法寺伊作先輩は、すっきり甘い香のする枝を持っていた。
「今日だけここに置くからね。明日には引き取るよ」
 それはなかなかに強すぎる香だったので抗議しようと思ったら、すでに先輩はいなかった。

       い な い

 食堂が迷子になって、夜が更けて来た。
 ふわんと香る。あ。
「善法寺伊作先輩?」
 呟くと、闇から滲むように先輩が現れた。
「やあ、次屋くん。どこへ?」
「食堂が迷子です」
 先輩は少し笑うと、目を閉じて、と言った。
「ぼく以外のこの香、追いかけてごらん」
 え、と目を開くと、すでに先輩はいなかった。
 香をたどってみれば三年長屋にたどり着いて、いないはずの作兵衛と左門が抱き合ってわんわん泣いていた。


























 迷子のしるべの枝を持って、六年長屋に御礼を言いに行った。
 声をかけようとした時、部屋の戸が開いてあふれだす、むせるような甘い香。
「あ、富松くん」
 善法寺伊作先輩は、くだんの枝を山のように抱えていた。

                              ひとりきり

 恩返しに手伝った。先輩は、低学年を中心に、厠に枝を置いて回った。
「留三郎にきついって怒られてね。大概ぼくたちの部屋は薬臭いんだから変わらないのに」
 先輩は、うちの迷子たちを呼んだ枝をちらちら揺らす。
「でも、匂いがつくと困るんじゃないですか」
 それもこの甘い香では。
「困る、困る……ね」
 先輩はふっと笑った。
「忍務なんか行けなくなれば良いんだ」
 細められた目は、ずいぶんと遠くを見ているようだった。
「……先輩が、ですか」
 訊いてみると、伊作先輩は奇妙に切ない顔をした。
「いいや」
 俺は目を逸らした。その顔は、俺ではない誰かひとりきりに向けられたものだから。
 甘い香が胸苦しいほどだった。












 ※金木犀は江戸時代伝来ですが…まあ、イメージは金木犀で。