祝水 しくじった、と雑渡昆奈門は考えた。 腹の傷がじくじくと痛む。血が止まっていないのだが、生憎ともう、滲み出る血が熱いのか冷たいのかすら分からない。 どうやら追手はもういないらしい。 この人数が自分の方へ来たということは、部下は無事に逃げおおせただろう。 よろめく足で重い身体を支え、大きく息をつく。 木立から洩れる月光が、妙に明るく目を射った。水、と雑渡は小さくあえいだ。 水が欲しい。 息を潜めて窺えば、山のざわめきに紛れて、かすかに沢の音がした。 そちらへ向かって踏みだしたその瞬間、不意に空気がふくれあがった。 あ、と悲鳴のような声をあげたかもしれない。 冷たい月光と、暗い木々と、そこにひらめいた白い――何かと。 それを感じ取った瞬間、まるでぶつりと糸を切ったように、雑渡の意識は途切れた。 ………不可思議な音がしている。 鳥のさえずりのように高い。陽だまりのぬくみのように円やかな……声? 雑渡昆奈門はぼんやりと目を開いた。現であるならばあり得ない穏やかさで、ゆっくりと。 こども、囁いたつもりの言葉は声にすらならなかったらしい。 歌いながら、小さな手で雑渡の体中にある細かな傷に、何かすっとした匂いのする軟膏をすりこんでいる子ども。 高くて円い声は、歌としか呼べない、けれどもまるで意味の分からない言葉を紡ぐ。 ふ、と子どもが伏せがちだった顔をあげる。 月光に鮮やかな陰影を受けて、おおきな目が雑渡を見た。 深い黒。透き通った闇。それは雑渡に静まりかえった泉を思わせた。 雑渡は手を伸ばし、 「俺の宝に触れるな、忍」 厳しい声にぴしりと打たれる。 とたんに身体が動かなくなり、雑渡は目を瞠った。 「狼か」 背筋の総毛立つ声だ。 動かない身体のまま雑渡は考え、実際にぞぞと背を震わせた。 子どもが上を向く。その先に白い腕が見えた。 あ、と思う間もなく、雑渡は自分の上に白い何かが屈みこんできたことを知った。 「狼、生きたいか?」 問うてきたのは、恐ろしく整った美貌の男だった。 「いや、今日に限ってはこれは愚問。俺の宝がお前を助けた」 雑渡は息もつけずに男を見つめた。知っている、そう思った。 見たことはない。だが、私はこの存在を知っている。 ―――水を。そう思った。きりきりと乾いた喉が、ぜいと息を吐く。 「愛も恋も知らぬ狼。お前の甘さは嫌いじゃないよ。でも俺の求めるものとは違う」 ぐらぐら揺れる頭を男の声が犯す。男の指は雑渡の頬をつるりと撫で、目をすうと塞いだ。 と同時に、唇に触れる柔い感触。流れ込む水を、雑渡はひどく甘く感じた。 その喉をかけくだる水が囁いたような気がした。 「お前ではこの子を変えられない」 雑渡は跳ねるように身を起こした。男はそれを予測したように音もなく雑渡を解放した。 ゆるりと唇が弧を描き、面白がるような声が告げる。 「お前の甘さがお前を追い詰め、同時に救うことになる」 子どもが近づく。雑渡は動けない。ただ身を強張らせて、それを見ている。 「もしも――」 子どもが雑渡の顔に触れる。 「お前がいつか、この子と出会い話すのなら、その時お前は愛の意味を知るだろう」 愛?なんだって言うんだ?そう思いながら雑渡は少しも動けない。 「誰よりもやさしく何よりもあたたかい心に美しさを見るだろう」 子どもは雑渡の目を見つめている。呑まれそうな黒―― 「恋の愚かさと尊さを味わうだろう」 耐えきれずに雑渡は目を閉じた。子どもの手が、気配が、離れていく。 何かこみあげる衝動がある。ああ、どうか―― 「さあ、これが行触神の言祝ぎだ」 ぱちん、と何かが弾けた気がした。向き直った先で、男は子どもを抱いて、嫣然と微笑んだ。 「俺の宝がお前を助けた。忘れるな、狼」 月光がちらりと揺れる。遅れて耳に入る風の音。ああ、目の前が見えない。 「業火の中で情をお見せ!」 そしてまた――闇。 朝の光に気づけば、確かに傷は手当てされていた。 雑渡昆奈門は帰路を駆けながら、夢か現か判断のつかない、昨夜の出来事を思い返す。 あれは行触神と。そう言った。それは戦場に現れる鬼の名だ。 童子を連れ、傷に呻く者に問いかける。生きたいか――と。 生きたいか、と。そう問われた。 (俺の宝がお前を助けた。忘れるな、狼) あれが神などであるものか。雑渡は考え、足を速める。 だがどんなに否定しても、この身を潤した水の甘さは忘れられそうになかった。 * 以来、行触神の噂はぱったりと止んだ。 雑渡昆奈門の身にも様々なことが起こり、いつしか雑渡はその出会いのことを忘れていた。 あの時、男は何と言ったのだったか? 言祝ぎと? 夢か現か、そんなぼんやりとした感覚を知っている気がすると、そう思いながら雑渡昆奈門は戦場を歩いている。 連日の暑さで膿んだ傷は、古いものも新しいものも、ひどく不快だ。 水を。思った、その視界に、報告にあった姿が飛びこむ。 どう見ても忍。ただしまだ、子どもの。 その忍が怪我人を手当てしている。暑さの見せた幻だと思いたかった。 だが、干上がるような喉の渇きがこれを現実だと教えてくれる。傷に涌く蛆の蠢きも、滴り目に滲みる汗の辛さも。 「その包帯、すこしもらえないか?」 声をかける。子どもが振り向く。その瞳。 ――喉に、身に、あの水の甘さが蘇ったような気がした。 戻 |