曇天の桜



 嵐の来そうな重い曇天の下、観る桜がいちばん好きだ。

 ――と、口に出しては言わないけれど、たぶん留三郎はとっくに気づいているんだろう。
 何も言わないでくれているし、ぼくの好きにさせてくれるのだけれど。
 それでもここまで荒れそうな空の下をぼくが駆け出そうとする度、物言いたげな目で見て、口を開きかけて、やっぱりやめる。
 で、やれやれと軽く、ほんとにかすかに首を振る。ぼくは笑う。

 留三郎は、ぼくがどの桜を観に行くかまで知っている。
 裏山の肩の巨岩を右に回って、くねる沢をふたつ越えたところ。
 道はないけど、行こうと思えば一年生だって迷わずに辿りつける。山を歩ける者ならば、怪我ひとつなく辿りつける。

 枝を押し避けてすこし進めば、ぽかりと空が開けて、そこにくすりぐさの溢れる原が現れる。
 ……大きな、薄墨桜が首をかしげるように、不穏な風に枝をざわめかせている。
 ぼくは笑う。

 ざああああぁ、ざああああぁ、風は暗い雲を運んで速い。
 山が透き通った手で撫でられて、ざああああぁ、木立をなびかせ震わせる。音が耳を打つ。
 それから風が耳に届く。

 溢れる花弁を散らし吹き付けて、薄墨桜は曇天に、灰色に煙って立っている。

 嵐の来そうな重い曇天の下、ここで観る薄墨桜がいちばん好きだ。
 青空の下では見えないものが見える。曇天の下でしか見えないものが見える。

 木の下で、生ぬるい重たい風が吹き抜けていく。渦を巻いて、花弁が空に舞い上がる。
 ああどうだ、これは桜。確かに紅を秘めているのだ。
 ざわざわと、風が過ぎゆく。ざわざわと、胸の奥が響く。
 ずっと昔から、このあえかな紅を観るたびに思っていたことが、ようやく言葉になるのだと思った。

 暗く重たい空に、花弁が舞う。灰色の空に、紅をほのかに刷いた薄墨が。
 優しさの中ではあのひとのやさしさに気づけない。

「―――あなたがここにいればいいのに」

 風が耳を塞いで、ぼくの頬には生ぬるい雨がぼたりと落ちた。