「やあ、くせ者だよ」
 馴染みになった挨拶をして目の前に姿を出すと、仕事熱心な保健委員長は、墨を含んだ筆を握りしめたまま固まった。


   手 蹟


 雑渡昆奈門が筆をつまんで手から抜くと、伊作は飛び上がるように正気づいた。
「どこです」
 何もかもを省略した問いかけを、雑渡は面白く思う。
「背中」
「ここ座って、看せて下さい」
 たった今まで伊作が座っていた所に大人しく座る。
 深まる秋に冷えた身体には、人肌の温みが妙にはっきり感じられた。
 数が多いから少しかかりますよ、と言われた。
 伊作が背を看ている間、雑渡の目の前には文机と、硯と、さっき取り上げた筆と、線の引かれた巻紙があった。
「医務室利用記録簿? …仕事の邪魔をしたね」
 背中で、伊作が微笑む気配がした。
「今日は本当に利用者が多くて。早く書かないと忘れそうだったんですけどね」
 忙しくてこんな時間に。
 言葉と共に、背にちりちりと痛みが走る。触れる手を不思議に熱く感じる。雑渡は筆を手に取った。
「じゃあ、私が伊作くんの手になろう。最初は誰かな」
「え」
 見えないけれど、今きっとあの大きな瞳をこぼれそうに見開いているだろう、と雑渡は思った。
「墨が落ちるよ。誰」
「え、あ、六年い組、立花仙蔵、火傷」
 雑渡は一瞬手を止めたが、すぐに筆を走らせた。
「次は」
「――一年は組、笹山兵太夫、擦過傷」
「次は」
「同じく一年は組、猪名寺乱太郎、切傷」
 伊作の声も手も淀みなく、雑渡の筆もするすると滑る。
 巻紙を横にずらしながら、雑渡はゆるりと声を投げる。
「くせ者に書かせて良いのかい」
 伊作の指がついと斬り傷をなぞった。
「雑渡さんですから」
「そんなことを言って。私がこれを元に学園を襲ったらどうするんだい」
「困ります」
「困るかい」
「ええ。とても」
 伊作は短く言い切り、ひそやかに笑った。
「あなたこそ、ぼくが今毒でも塗ってたらどうするんです」
 雑渡の筆が止まった。
「……それは、困るね」
「困るでしょう」
 ひやり、熱い指が冷たい薬を塗っていく。
「四年ろ組、田村三木ヱ門、喉炎症」
 変わらぬ声にまた筆が動きだす。呼応するように伊作の指が薬を塗っていく。
 古傷も含め、かすかに残る薬の重たい匂い。
 六年い組、潮江文次郎、打撲、六年は組、食満留三郎、打撲。ふたつの名前を言うと伊作の声は途切れた。
「六年は組」
 ややあって呟かれる。雑渡は筆を進める。そして、沈黙。
 伊作くん、呼びかけようとした時、不意に両肩の裏にそっと手が置かれた。
 耳をくすぐる髪、薬の匂いに甘さが混じる。声が。
「善法寺、伊作」
 囁くように告げられて、ずくり、心の臓がうずいた。
 は、と息をつく、その瞬間に伊作の手が後ろから伸びてきた。
 ……包帯を握っていた。雑渡は詰めた息をゆっくりと吐く。伊作の腕が回っては戻り、包帯を巻いていく。
 剥きだしの背をちらちらとつついていく、それはこの柔らかな髪だろう。
 善法寺伊作。名を書いた。
「………傷は」
 尋ねたが、伊作は答えない。ただ、ほんの少し包帯の引かれる感触がして止まった。
 伊作はうつむいているようだった。
「伊作く…」
「それで終わりです」
 静かな声が聞こえた。
 雑渡は猛烈に振り返りたくなった。その瞳を覗きこみたいと思った。
 瞬間、伊作はついと立ち上がると、文机の向こう側に座った。向かい合った顔は、もういつもの穏やかな笑顔だった。
「雑渡さん、ここをお忘れですよ」
 巻紙をつるりと最初に戻して伊作が言う。床にこぼれた『善法寺伊作』がなぜか無性に目についた。
 指された先には「記入者名」と書かれている。
 雑渡は伊作を見た。伊作は変わらず笑顔でいる。雑渡は溜息をついて筆をとった。
「……これで良いかい」
「良くできました」
 下級生に言うように告げると、一転、伊作は眉をへにゃりと下げる。
「すみませんでした、手伝わせてしまって」
 雑渡は言葉が喉に絡まるような気がする。
 いや、いいんだよ。
 どうにかこうにか絞り出したそんな言葉を囁いて、雑渡昆奈門は闇に溶けた。


 秋の夜長もずいぶんと更けた頃、部屋に戻って来た伊作がなかなか寝ようとしないので、食満留三郎は訝しく思う。
 かさりと紙の触れあう音。委員会仕事にしては妙なことだ。
「いさ、何見てんだ」
 衝立の向こうへ声だけ飛ばしてみれば、んん、と気のない返事がくる。
「偽書の術の原本かなぁ…」
「は?」
 本人ですら不思議そうな声に、留三郎は軽く混乱する。
「………明日やれよ」
 眠気も襲って来て投げやりにそう言うと、ぼそりと独り言。
「手蹟を誰にも見せたくないとか、そんな」
「て?」
 手ってなんだ、と思いながら留三郎は眠りに引きこまれていった。
 だからその後のことは知らない。
 墨の上をそっとなぞった指も、小さく噛まれた唇も、何か酷く深い色をした瞳も、知りはしない。


「手紙書こうかな」
 ぱきぱきぱき。ばっきり。
「ああ!? 組頭、それは私のです!」
「片方だけじゃ不公平だし」
 ばきばきばき。べっきり。
「ちょっ…何の話ですか!」
 諸泉尊奈門は食べるわけでもないのに割られた煎餅にショックを受けて、上司の言葉を聞き逃した。
「本物が欲しいね。できれば手紙で」

 それはおそらく、きっと認めないけれど、いっぷう変わった古風な恋のはじまりなのだった。