山本陣内の二度目の訪問は、妙に温い風の吹く真昼のことだった。

 陽射しが焼けつくように強い、そのくせ陰は凍える寒さ。
「山本は追い返されるのかァ」
 縁側を歩んでいると唐突に声が飛ぶ。陣内はぎくりと立ち止まる。
「組頭」
 縁側のすぐ横でじっと動かない頭。そんな年でもないのに真っ白な髪を結わずに流して、
 蟻だか何だかを見つめてこちらを見ようとしないのは、タソガレドキ忍組頭だった。
「まさか、追い返されたんですか」
 つとめて冷静な声で陣内は問うた。組頭はひょいと顔を上げて陣内を見ると、呑気な声で答えた。
「されそうになった。雑渡は大した仔犬を飼ってるなァ」
 陣内は大きくゆっくりと瞬きをした。
「幼いだけで、犬ではありません」
「稚い火熊にも噛みつかれそうになった」
「あれとて、もはや熊ではありません」
 組頭は、ひや、と唇を曲げた。
「隼も鷲も、羽が燃えれば囀るしかないんだがなァ」
 陣内も唇を曲げた。ただし下に。
「狼はそれでも走ります」
 は、は、は、と哄笑が響いた。組頭はずいぶん機嫌の良い顔で立ちあがると、笑い続けたまま去って行った。
 陣内はしばし唇を曲げたまま立ち尽くしていたが、まもなく歩きだした。

 正面から行ったのに、組頭に仔犬扱いされた小さな姿は見えず、陣内は眉をひそめる。
 警戒というわけではないが、音もなくするりと室に入り、―――絶句した。
 鈍色の、緑に曇る空。金と銀で豪華に、けれどもどこか荒涼と描かれた冬の草と露。
 温い風が目の前のそれを揺らし、陣内は一瞬の自失から立ち直る。
「っ、小頭」
 呼びかけると、冬の情景の打掛がべろりとめくられる。
「二度目だよ。小頭はお前」
「代理です」
「やれやれ」
 昆奈門の顔が打掛の向こうに引っこんだのを見て、陣内は動いた。
「どうしてここに、これがあるんですか」
 蒲団に戻らせた昆奈門の前にきちんと座って陣内が尋ねると、昆奈門はううんと唸った。
「そろそろ来ると思ったから、かな」
「………わたしが、ですか」
 昆奈門は答えなかった。ただ少し、首をかしげて言った。
「考えてみたんだが、どうやらもう私は、あの人といた時間よりあの人といない時間の方が長いらしい」
 陣内は息を飲んだ。昆奈門が続ける。
「だから“いつか”が来たんだろう。陣内――話してくれるかい」
 温い風が吹き抜けていった。
 陣内は打掛に目をやり、きゅっと唇を結ぶと昆奈門を見た。
「―――小頭は、遺言を残されませんでした。ただ、“見たものを見たように、聞いたものを聞いたように”と」
 昆奈門は泣きそうな顔をしているように見えた。
「あなたは知りたがらなかった。わたしの見たものを見たくないと言った。聞いたものを聞きたくないと言った。昆奈門さま、」
「狼は囀らないよ。走る。だから、そうだろうと思った」
 急きこんだ声に遮られて陣内は黙った。
「でも」
 焼けた肌と覆う包帯と、それらすべてを突き抜けて心が叫ぶような声だった。
「私は言葉がほしいんだ」
「昆奈門さま」
「言葉は水みたいなものだ。言葉がほしいんだ。陣内、私は親父の最期をお前の言葉で聞きたいんだ」
「昆奈門さま、」
 陣内は弾かれたように昆奈門に近づいた。肩に触れて、覆い被さって、その瞼を掌で覆った。とめどなく涙が溢れてきた。
「あ、ああ、あ」
「……陣内」
「ああ、昆、おまえ、昆、どうして、そんな、どうして、」
 陣内は自分が十四年前に戻った気がした。
「なんで、なんでそんな、乾いて、なんで、」
 昆奈門はかわいい弟分だった。その弟の父を自分が奪うだなんて、その弟を自分が悲しませるだなんて、あっていいはずがなかった。
「傷つくのはおれのはずだったのに!おまえは何も知らないでよかったのに!」
 悲しみは他人のものまで背負えるものではない。
 それを良く知っていても、陣内は苦しかった。昆奈門の心の飢えに、乾きに、今ようやく気づいたことが許せなかった。
 どうして、どうしてと繰り返す陣内は、すがるように守るように昆奈門を抱きしめている。
 その波打つ背に、そっと包帯だらけの腕が回る。
「火に近づきすぎたんだよ……近づきすぎた。水が要るんだ」
 聞こえているかはわからなかったが、覆われた掌の下で、どちらの目もしっかり開いて、昆奈門はもう一度言った。
「水が、要るんだ」
 陣内は泣き続けている。
 涙が止まったら、昆奈門に話をするだろうことはわかっていた。
 そして言葉は昆奈門を潤しはしないだろうことも。