山本陣内の三度目の訪問は、星の残る明け方のことだった。

 月は山の端に隠れ、冷えた光の名残が稜線の空を彩っている。満天の星は未だ暗い闇を吸うように凍っている。
 だが今にも東の空は暗さを追いやり、凍星の群れを溶かす。
 雑渡昆奈門は縁側に腰掛けて、はや薄い膜のような明みを帯びた空に手紙をかざす。
 たった三行の文が書かれたそれは、包み紙であったから、端やら何やらが折れ曲がって細い筆跡を歪ませていた。
 ふ、とついた息はぼんやりと白い。
「寒い……」
 のか?と首をかしげたくなって上げていた手を下ろすと、肩に暖かい重みがかかる。次いでかかった声は星のように冷たかったのだが。
「なら寝床に戻るんですね、小頭」
 昆奈門は羽織を掻き寄せる。確かに寒かったような気がした。
「小頭はお前だよ?」
「代理です」
「頑固者」
「ご存知の通り」
「おうおう」
 陣内は室を覗いて、どうやら不機嫌になったようだった。会話の合間に物を動かす音、衣擦れ。昆奈門はまた手紙を見つめる。
 ―――背後から深い溜息が一つ、する。
 昆奈門は振り返った。
「…………なんですか、これは」
 やや重い沈黙を頭につけて、陣内はそれを見つめていた。
 昆奈門は目を泳がせた。
「………仔狼?」
「こんな体たらくでは正に“仔”ですがね」
 室の隅では少年と子どもが、昆奈門の上掛けを奪って眠っているのだった。寒いのだろう、丸まって寄り添ったそれは、確かに獣の眠る様に似ていた。
「どうして高坂は起きないんですか。気抜けか阿呆か」
「お前、烏帽子子に向かって何たる言い種だい」
「いたって良好な義親子関係ですが」
「いやだそんな軋んだ関係…」
「傍から見れば、あなたと小頭も似たようなものでしたよ」
 昆奈門はぷいと正面に向いた。陣内は小さく笑うと、その背中に近づいた。
「明けてきましたね」
 空はとうに朝へ向かって様相を変えている。凍星はゆるみ、輝きは闇と共に遠ざかる。薄膜の青さは刻一刻と明るさの層を増し、光をたたえていく。
「あまり、怒ってやるな。私が一服盛ったんだ」
「盛られるようじゃあお小言ですね。何があったんですか」
「手紙が来た」
「手紙?」
「超スゴ腕狙撃手どのから薬のお届けでね」
「薬」
「そう。おかげで高坂・諸泉間の最終対決が勃発。あんまりうるさいんで黙らせちゃった」
「黙らせちゃったは結構ですが。薬は?」
 昆奈門は肩をすくめた。陣内の眉がきりりと上がった。
 横から覗き込むと、昆奈門は顔を逸らす。陣内は回りこみかけてやめる。昆奈門がおそるおそる陣内を見る。いささか据わった視線が返る。
 無言の攻防は、昆奈門が右の袖を捲ったことで終了した。
「陣内に見せてから考えるよって言ったけどね。ほら、……これ」
 ゆるい包帯をずらすと、色の変わった皮膚が覗く。陣内は目を瞠った。
「治ってますね」
「そうなんだよね」
「………使ったんですね」
「使った」
 悪びれずに認めて、昆奈門は続ける。
「右腕にこう、がーっと。そしたら無くなっちゃってね、それ以上は無理だった」
 陣内は泣きだしそうに薄らと笑った。
「得体の知れない薬をほいほいと使ったんですね…」
 常よりも切れ味の足りない言葉だった。昆奈門は空を見た。青が濃くなっていく。最後の光を待ちわびて、暁の空が広がる。
 脇に置かれた手紙を、陣内が手に取る。かさり、乾いた紙の音。
「私は行触神に遭ったことがある」
 納得させるふうでもなく、昆奈門は呟いた。
「言われているように鬼ではなかったけれど、あれは神ではあったのかもしれない」
 手紙には文がひとつ。『行触神の火傷の薬』。
 ―――戦場に出る鬼の名を、誰が呼んだか行触神という。
 傷つき倒れた者たちに、生か死かを問うていく。
 不思議な手当てを受け生還した者、仲間を殺され泣いた者、戦帰りの者たちの間でまことのこととして語られる。
 遭えば、いのちを問われる。
 幽玄のように美しく、小さな童子と共に戦場をゆく。
「……童子がね。いたよ。連れていた。あれは覚えてる。“俺の宝”。そう言った」
 遠い昔のように思えるいつだかに、暗い森の中で。昆奈門は行触神に遭った。
 そして。
 その時感じた何かを思い出すかのように、昆奈門は目を閉じた。闇。その向こうに燃える炎を感じている。
「不思議な目をしていた。深い目。何も棲めない深い泉。狂おしい目をしていた」
 そのこどもの目が、どこか奥底に棲んでいる。知ってしまった。戻れはしない。
 昆奈門は静かに目を開き、陽の突き刺す前の青空を映す。
「ああ、狂おしい目を」
 言葉は空に沈むように溶けた。

 あなたの方が狂おしい目をしている。そう山本陣内は思った。
 変わるのかもしれない。否、もう変わってしまったのかもしれない。……それが喜ばしいかどうか、陣内には判断がつかなかった。
 だから陣内は、現実的な処理をした。何よりもまず、昆奈門に必要なのは養生だった。
 折しもすっかり明るくなった空に燦然たる陽が顔を出した。灼けつくような曙光が射し込む。
 蒲団に戻った昆奈門は、被せられた上掛けにふふふと言った。
「子どもって温かいねえ」
「あなたが冷えすぎなんです」
 仔狼どもに羽織をかけて振り返ると、痛いと呻きながら昆奈門は打掛を見ていた。
 先ほどまでの狂おしい光が消えて、酷くやさしい目をしていたので、陣内は多分、安心した。


      (補足)